ベルリオーズは麻薬だ!

On 2010/07/23, in レポート, by admin

ひとはコンサートに何を求めて行くのだろうか?

わたしは、何か新しい発見をしたいと思い、コンサートに通う。そして、それまでに自分自身の力では残念ながら楽譜から読みとることのできなかったものを感じ取ることができたとき、このうえない歓びを感じる。

マエストロ、プラッソンは、今回のベルリオーズ・プロジェクトを通じて、じつに多くのことを教えてくれた。この機会を作ってくれた、東京二期会、および、東京フィルにまずは、感謝したい。

先日の《ファウストの劫罰》について、わたしは初感として「夢をみているかのよう」だったと書いた。そのことは、今日の東京フィル定期公演(サントリーホール)でも変わることはなかった。

プラッソンは、ベルリオーズという麻薬で、わたしたちを恍惚とした陶酔感に浸らせ、夢と現実の狭間を浮遊させる。そして、「フランス音楽はかく語りき」といわんばかりに、フランス人の息吹に充ち満ちた、自然な呼吸で、まるで、音の一粒一粒を愛おしむかのように丁寧に奏でる。

ベルリオーズの歌曲集《夏の夜》。とにかく美しい。そして、やさしい。これほどまでに美しいベルリオーズをかつて聴いたことがあったろうか? 急遽代役となった加納悦子は、それを微塵も感じさせない完璧な歌唱で、詩人ゴーティエの精神を表出させていた。もちろん、それはプラッソンの自信に満ちた伴奏に伴われてこそのもの。プラッソンは、指揮台にスコアをおきながらも、ほとんど暗譜で、しかも、自分自身も口ずさみながら、フランス人の呼吸を加納に伝える。
いかにプラッソンがベルリオーズの音楽を愛し、自分のものとして消化し、それを芸術として昇華させているかがわかる熱演だったが、とにかくプラッソンがうれしそうに指揮している姿は印象的だった。

ベルリオーズ・プロジェクトのメインは、《幻想交響曲》。これもまた名演。フレージングに気を遣いながら、まるでそれがオペラであるかのように、歌心にあふれた演奏は、ベルリオーズの作品全般に通じる「劇的」なるものを余すことなく表現していた。とくに印象的だったのが、第3楽章「野の風景」。とにかく極限までテンポを落とした演奏は、恍惚とした世界にわたしたちを引き込む。そして、目の前に、「物語」をはっきりと浮かび上がらせる。

もちろん、惜しいところがなかったわけではない。第2楽章「舞踏会」では、プラッソンの棒にうまく東京フィルがついていけないところもあり、“優雅で感傷的なワルツ”を奏でることができず、ちょっとぎこちないところがあった。

そして、演奏会の冒頭《ローマの謝肉祭》序曲は、最初の一音から指揮棒とオケがうまくかみあわず、全体に溜めのない直線的すぎる演奏で、よく言えば若々しい演奏ではあるのだが、それ以上のものは感じられなかった。

とはいえ、今日の演奏会は、そういう傷がちっとも気にならないほど、このうえなく“夏の夜の幻想”に浸れる、すばらしいひとときだった。

今回のプロジェクトで、東京フィルは多くのことを学んだと思う。と同時に、わたしたちもまた、ベルリオーズの新たなる魅力を感じ取ることができた。おそらくプラッソンと東京フィルは相性がいいのだと思う。また近い将来に、このコンビでベルリオーズを聴ける日がくるだろうか? できることなら、今度は《レリオ》と《レクイエム》を演奏してほしい、というのは欲張りすぎだろうか・・・

 

 17日の雑感で書いたように、その日、舞台にはミューズが降り立った。それはお世辞でも何でもなく、それほどまでにすべてが完璧だった(客席の反応もふくめ、会場全体がひとつになった)。もちろん、代役をつとめた小泉詠子にそれ以上を求めるのは酷であり、それを差し引いたとしても、すべてがうまく絡み合った、名舞台だったのである。
 題名役の福井敬の、伸びのある余裕の歌声はすばらしく、とくに高音域の伸びはその艶やかさとあいまって文句のつけようがない。そして、メフィストフェレスの小森輝彦、ブランデルの佐藤泰弘ともども、その実力をいかんなく発揮していたように思う。
 オーケストラも、完璧。バランスもふくめ、文句のつけようがない。これほどまでにフランス音楽を自然な形で表現できた東京フィルの演奏をかつて私は聴いたことがない。
 そして、合唱もすばらしい。特に、NHK東京児童合唱団はその秀逸なバランスと透明感で会場を圧倒した。また、二期会合唱団は、めまぐるしく変わる場面転換の難しさにもかかわらず、その声、演技ともにすばらしいの一言。

 18日の最終日、まず最初に取り上げたいのが、マルグリート役の林正子。艶やかでふくよかで芳醇な声は魅力たっぷりで、ちょっと色っぽい、少し大人なマルグリートだ。その歌声のよさに加え、発音がすばらしくいいため、よりいっそう響きに輝きが出てくる。
 題名役の樋口達哉は、この日、じつは本調子ではなかった。彼の実力からすれば、もっとすばらしい歌声が聴けたはずだ。特に、高音部での自然な伸びがなかったのは惜しまれる。しかし、死を前に絶望するファウスト、そして、メフィストフェレスとの契約にサインするあたり、迫真の演技とあいまって、観る者を魅了したのは確かだ。できれば100%の実力を発揮できる状態でもう一度聴いてみたい、というのが正直なところ。
 泉良平は、根っからの悪としてのメフィストフェレスを演じきっていたが、メフィストフェレスが軽やかに、突然登場するはずのところ、所々それがばれてしまうのはいただけない。とはいえ、スケールの大きなところは魅力で、彼の本領はやはり、ワーグナーじゃないかと思う。今度はハーゲンを聴いてみたくなったが、どうだろうか。

 この日は、前日とはうってかわり、特に前半部、アンサンブルに乱れがあったのは残念だった。なかでも、第5場でのオケのアンサンブルの乱れ、第6場で合唱とオケがうまくかみ合わないところは惜しかった。日によって出来不出来がある。それもまあ、オペラの醍醐味のひとつなのだが。
 指揮のプラッソンは、特にファウストの場面で前日よりも少しテンポを遅めに取っていたのが印象的だったが、マエストロといえど人間だ!と思わせられたのが、それまで抑圧していた自らの感情を解き放つように、前日以上にオーケストラを鳴らしていたところ。それでももっと鳴らしてほしいというファンもいるだろうが、あれ以上鳴らしてしまうと、オケと舞台一体感がなくなり、すべてが台無しになってしまう、ぎりぎりの勝負だったと感じた。

 演出について。
 
 ゲーテが『ファウスト』で描きたかったものは何か?
 大島早紀子はまず、そこに着目した。なぜなら、ベルリオーズの作品もまず、ゲーテありきだったからだ。ゲーテの世界に共感し生まれた作品であるからこそ、まずはゲーテの世界を、その精神を知るべきところから作業は始まる。
 『ファウスト』が永く読まれ続け、多くの作曲家をはじめとする文化に影響を与えたのは、いろいろなインスピレーションをうけるからであり、いろいろな解釈が可能だから。優れた作品というのは、一つの解釈では収まりきれない。あらゆる方向から多様な解釈ができてこそすぐれた作品なのであり、それはクラシックとして、時代を超越し、ながく愛される。人がどう感じるのか、それを自由なところで解放しているからこそ、それは人々を魅了する。

 大島は、すべてを、“メフィストフェレスによって描き出されたファウストの夢のなかの出来事”とした。だから、すべての動きはメフィストの指先ひとつで決まる。

 この作品は、全部で20場。そのほとんどが、まったく違う場面。ストーリーはめまぐるしく変わる。だから、ベルリオーズも、ファウストの世界そのままに表現するには、舞台上演としては考えない、オペラとは異なる「劇的物語」として作曲したのだと思う。それゆえ、舞台転換には、発想に工夫が必要だ。
 メインの装置以外は、小物と照明の妙をうまく利用し、自然な形で舞台を転換する。世界に誇る舞台機構をもつ新国立劇場ならまた違った演出になったのかもしれないと思わせられる反面、舞台転換が容易ではない東京文化会館で、それこそ、できることが限られているからこそできた演出だと言える。そしてこのことは、結果として、少ない装置でも、ここまでできる、ということを示した意義ある舞台だったと思う。特に、松井るみの装置と沢田祐二の照明のコンビは、これまで以上に効果的に機能していた。半透明のプラスチック板をうまくレイヤーとして用い、ときに壁となり、仕切りとなり、またあるときはスクリーンとして映し出す。

 それぞれの人の動きも演劇的。これまで日本人の悪いところとして、その演技の下手さがあった(観ているこちらが赤面してしまうくらいな棒立ちとか)しかし、合唱も含め、それぞれが生き生きとしている。特に、酒場での合唱団の動き、ファウストの心の移り変わり、ファウストに契約書へ署名させ、勝ち誇るメフィストの場面は秀逸だった。ただ、マルグリートの〈ロマンス(紡ぎ歌)〉では、狂える女性の姿を描ききれなかったのが残念だった。(それにしても、なぜ演出プランを直前で変更したのか、機会があれば聞いてみたい)

 H.アール・カオスの舞踏は、オペラだから、ファウストだからと気負い、いつもとは違うものを目指すのでなく、H.アール・カオスの基本型はそのままに崩すことなく、新たな魅力を加味していた。特に、人間わざを超越したメインダンサー白河直子の多様な表現はこれまでになかったものだ。
 舞踏は、ときに水として、火として、木として、森、鳥、精霊としてそれらを具現化する。と同時に、死者や女性戦士としての姿も表現する。

 《ファウストの劫罰》を舞台化する際にとりわけ問題になるのが、音楽以外何も設定されていない〈ハンガリー行進曲〉の場面をどうするか、ということだろう。それは演出する側にとっても、観る側にとっても大きな関心事だ。
 もともとゲーテにはない場面だし、ベルリオーズとしては、コンサートで披露したら「うけた」から入れたというところもある。だから、そこを舞台としてどう表現するか、演出家にとって、一番悩ましいところだ。
 大島にとって、舞踏がそこの中心になることは自明のこと。では舞踏を使ってどうするか? ただ行進にあわせて舞踏を披露するのでは意味がない。それ以上に、舞台全体としてそこだけが「浮いて」しまっても困る。

 大島は、ゲーテの描く「自然に対する畏怖と尊敬」に着目した。

 〈ハンガリー行進曲〉の場面を、人間たちの争い、自然を破壊する人間の愚かさと、怒れる自然、として表現した。そしてそれは2部の幕切れ、兵士や学生たちの行進につながるのだ。
 ベルリオーズは2部の幕切れ、たんに、ファウストとメフィストフェレスがそれらに紛れ込んでマルグリートのいる村へと侵入するという設定だけにとどまっているが、そこに大島は、戦争という人間の野蛮な行為と、戦没者への祈りを捧げた。そして、それが最後、マルグリートの昇天と同じように、自らの意志とはかけ離れたところでその人の人生を変えられてしまうことになったすべての人間を救済するのである。

 ただし、少し残念だったのは、2部の最後、死者たちが地獄に堕ちるところで、照明の効果的なタイミングを少し逸してしまっていること、そして、第3部が終わり拍手のあと第4部との間にほとんど間をおかなかったこと。第3部と第4部の間には、ストーリー上おそらく、そうとうの年月(日数)が流れているはずだ。だから、もう少し間をおいたほうが自然だと思うのだが、それが無いから、聴衆は混乱する(特にストーリーをそれほど知らずにいる場合)。

 とはいえ、これほど考え抜かれ、舞踏があらゆるものを表現し尽くし、セットと照明も相まって作り出された美しい舞台はなかなか観られない。だからこそ、もう一歩先の完璧さを望むのだが、それは無いものねだりだろうか。

 さて、これは制作側への注文だが、新制作の場合、ある程度のセットプランであるとか、演出プランは事前に多少でも紹介すべきだったのではないだろうか。

 演出ノートを先に出してしまうのがいいのか、そうではないのか、あまり詳しい意図を演出家は話さないほうがいいのか・・・
 悩ましいところではあるが、しかし、まったく何もないところで大勢の観客を会場へと導くほどの自信があったのだろうか? そうとはとうてい思えない。東京二期会の舞台を通じてこれからオペラ・ファンになるかもしれない多くの人々のためにも、演出ノート、セットプランの一部公開、制作過程の詳細なレポートなど、強く再考を促したい

そして、「青少年のための舞台芸術体験プログラム」ともなったゲネプロ最終日、事前にこれが「総稽古」であることがなんら説明されなかったそうだ。この日、タイトル・ロールの樋口は本調子ではなかったため、本番とはまったく違い相当に抑えて歌っていた。そのことで、多くの人に誤解を生むことにもなった。これでは、せっかく楽しみにしていた学生たちを失望させ、やっぱりオペラはつまらない、そう思わせることになったのではないか。

せっかくの価値あるプログラム。東京文化発信プロジェクト室と財団がうまく連携してきちんとサポートすべきである。そうでないと、何のためになっているのか、その存在意義すら問われることにもなりかねず、結果、自分たちの首をしめることにはならないか。

公演終了

On 2010/07/19, in 未分類, by admin

18日、無事公演終了しました。

6月からほぼ一ヶ月半のあいだ、毎日更新することを日課にしてきましたが、実際やるとなると、毎日更新するのもなかなかたいへんなことですね。

今回の特集の〆として、最終日の感想などもろもろアップ予定ですが、20日になりそうです。

写真も、未公開部分含めてあらためてまとめてみたいと思っています。

このあとは、ポータルサイトとしての機能をもたせるべく、9月のオープンを目指し準備をすすめる予定です。

【各クラシック音楽関連事務所、団体さまへ】

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〜ああ、なんだか胸が苦しい。まるで子供みたいに恐いわ。昨日見た夢に、私は困惑する・・・

 《ファウストの劫罰》第3部11場、マルグリートが登場するシーンの歌詞である。この思いは、マルグリートだけでなく、急遽代役が決まった小泉詠子の胸の内をも表していた。思えば、カバー(代役候補)として控えていたとはいえ、この日、林美智子の代役として舞台に立つことは、自ら進んで選択したのではなく、いわばマルグリートがメフィストフェレスというまったく自分の知るべくもない力によってその人生を左右されたのと同じように、見えざる力によって導かれたもの。思いもかけない出来事に、困惑と期待が綯い交ぜになった状態で、それはそれはほんとうに息苦しいこの数日だったであろうことは想像に難くない。

 休憩後、第3部が始まる。冒頭、マルグリートはステージの一番高いところで、もの思いつつ佇んでいる。このとき小泉は〜ああ、ここでは不安が消え去っていく、この静寂を私は愛する、ああ、若き娘、魅力的な恋人よ〜と、“運命動機”に伴われながら歌うファウストの声を聴きながら、「どうか今日この舞台、無事にうまく行くように」と祈っていたに違いない。
 そして、マルグリートの登場である。
 やはり、そうとうに緊張していたのか、最初はその声も固く、細く、大丈夫だろうかと、少し不安になった。〜ああ、なんだか胸が苦しい・・・。こちらも同じ気持ちになってくる。しかしそれも束の間、〈トゥーレの王〉そして、〈ロマンス(紡ぎ歌)〉と、大事な場面を乗り切った。堂々としたものである。

 《ファウストの劫罰》は、もともとオペラとして作られたものではない。それ故、オペラとして上演するには困難が伴うばかりか、音楽を主眼においているため、全編を通じ、オペラで言うところの「アリア」に相当する場面が非常に多い。だから、すべてが主役。言ってみれば、『NHK紅白歌合戦』のようなものである(しかも、合唱も、舞台上演となれば、ただでさえ難しい歌に、演技が加わるたいへんさ)。特に休憩を挟んだ第三部以降のすごさは、半端ではない。マルグリートの登場する場面は、この休憩後からとはいえ、〈トゥーレの王〉〈ロマンス(紡ぎ歌)〉と大事な“アリア”が続く。この二つの曲だけで、合計20分だ。これだけの曲を、舞台上たった独りで歌いきらなければならない。どれだけたいへんなことか・・・

 小泉は、まだ荒削りとはいえ、純真無垢な女性をうまく表現できていたと思う。もちろん、若さゆえ〈紡ぎ歌〉(マルグリートがファウストに会いたい一心で母親を殺してまでファウストとの再会を待ちわびるシーン)での、鬼気迫る迫力、感情を吐露する“歌による演技”にはまだ遠いところがあるのは否めない。しかし、声はそのひとの身体の成長に伴って進化するもの。現時点でこれだけ歌えるなら、彼女の将来を楽しみにすることは、おかしなことではないだろう。
 ただ、ゲネプロ、そして本番とみて(本番をみたのは今日がはじめて)気になるのは、〈紡ぎ歌〉のあと、ついにマルグリートが気をおかしくし、泣き、そして自分の馬鹿さ加減を罵り笑い狂う姿がそこになかったのは(もちろん、壁に寄りかかり泣いているシーンはあったが)、演出プランが変更されたのだろうか。これは最終日にもう一度確認したい。

 このほかの歌手陣と演出全体についての感想は、最終日の公演をみてからにしたい。

 それにしても、今回の収穫はおそらく、プラッソンと東京フィルによる音作りだろう。ベルリオーズというと、とかく「迫力満点」「破天荒むき出し」のガンガン、バリバリの演奏が好まれる傾向にある。しかし、今回の演奏は、ベルリーズの音楽には「これほどまでにやさしい、美しい音楽が満ち溢れている」ということを再認識させてくれる、じつにフランスのエスプリ薫る、エレガントな演奏だった。もちろん、そこに異を唱えるひとがいてもおかしくはないだろう。ただ言えることは、プラッソンは、感情を爆発させたい自らの思いを削ぎ取り、ぎりぎりまで感情を抑制し、音楽が舞台と一体となってひとつの作品となることを目指したのだ。それは彼の指揮棒を見ていればわかることだ。「芸術に最も大切なのは時間なのです」と語るプラッソンの、巨匠としての自信と余裕がそこにはあった。本公演終了後の東京フィルとの《幻想交響曲》がいっそう楽しみになってきた。

 評論家の吉田秀和はその著書『之を楽しむ者に如かず』で音楽についてこう書く。
「知識より、好き嫌い云々よりクラシックは楽しむのが一番。たとえば、こんなふうに……。(略)今までさんざんきいてきた曲が違ってきこえてくるときは、むしろ、良かったと思う」
 好き嫌いは誰にでもある、それはかまわないし、悪いことではない。しかし、クラシック音楽は「再現芸術」。遠い昔に作曲された作品を、ただ「楽譜」という一つの標を通して、演奏家が自らの芸術性でそれを再現する。だから、そこには演奏する者のそれぞれの思いがあるわけで、だからこそ、クラシック音楽はおもしろい。
 もちろん、「こう演奏されてしかるべきである」と力説したくなる演奏もないわけではない。そういうときは、なんだか損をしたような、いや、それ以上に、腹立たしい思いをすることもある。それは確かだ。しかし、一歩引いて、冷静になって考えたとき、「ああ、もしかしたら、こういう演奏のほうが正しいのかもしれない」そう思わせられることもよくあることだ。というよりも、持論をひけらかすのでなく、ちょっと時間と距離をおいて、冷静になって反芻し、咀嚼し、そして消化する。この一連の行動をとれるかどうかだろう。

 そして、確実に言えることは、この日、舞台にミューズ(音楽・舞踏・学術・文芸などを司るギリシャ神話の女神)が降り立ったことだ。それほどまでに完璧だったこの日の公演をうけて、最終日、緊張を切らさずに無事公演を終えてほしい、そう願っている。

期待の新人・小泉詠子

On 2010/07/17, in コラム, 情報, by admin

本日、《ファウストの劫罰》に行かれる方は幸運です。なぜなら、必ずや将来の日本、いや世界のオペラ界の重要なひとりとなるであろう新人歌手の、二期会オペラ・デビューに立ち会えるからです。

オペラ歌手の代役は、技術さえあれば誰でもできる、という訳ではありません。
オペラは総合芸術。
単なるソリストとしての腕前だけでは務まりません。

オペラの舞台裏には必ず、アンダーカバー(代役候補)が控えています。いつ、どんな突発的な事故があってもすぐに代わりを務められるように、稽古はもちろんのこと、本番でも、舞台裏にずっと控えています。

その多くは、実際に舞台に立つことはありません。そして、カバーであること、あったことすら、ほとんどの場合公表されません。
だからと言って、何の意味もないはずはなく、もちろん、本人の将来の糧となるものです。そして、ときに、それがとてつもないチャンスにつながるのです。

昨年3月、新国立劇場研修生出身のソプラノ、中村恵理さんがロンドンのロイヤル・オペラで、あの世界的スター歌手アンナ・ネトレプコの代役をつとめました。中村恵理さんは、アンナ・ネトレプコのカバーでしたが、超売れっ子のキャンセルと、まったく無名の歌手、しかも日本人ということで、大騒ぎになりました。しかし、それもつかの間、見事に代役をこなした中村さんのことは、賞賛をもってニュースとして世界中を駆け巡りました。

そしてついに、名門、バイエルン州立歌劇場専属歌手の座を勝ちとったのです。

●第4部第20場 マルグリートの昇天          2010.7.13 東京文化会館にて              Photograph by M.Terashi  協力:財団法人 東京二期会           (許可のない無断転載を禁じます)

今回の林美智子さん降板は、ほんとうに残念です。でも、小泉詠子(こいずみ・えいこ)さんは、マルグリート役のカバーとしてこの半年間、稽古を積み重ねていました。そして、マエストロ、プラッソンの推薦もあり、二期会オペラデビューということになったのです。

総稽古に参加した彼女の舞台姿は、新人とは思えない、堂々たるものでした。
本番も、期待していいと思います。
おそらく、今日観に行ってよかった、聴けてよかったと思えるはず
です。
そして、いずれかの日、「小泉詠子のデビューに立ち会った」ということを誇れる日が来るに違いありません。

こうしたことは、滅多にあることではありません。

7月17日(土)14時開演。
ぜひ、東京文化会館に足を運び、応援してください。